| Schon R-21/Bob Runde Era | |
| 渓流詩人のキュー | |
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■Schon R-21/ショーン(ロバート・ランド)■ 画像はクリックで大きくなります
【匠の部位】 *チューリップウッド4剣/マグロ黒檀・象牙ダイヤモンドインレイ *シャフトA ショーン・オリジナル/マイカルタ先角 *シャフトB ショーン・オリジナル/象牙先角 【重 量】バット:445g シャフトA:125g → 合計570g(20.10オンス) シャフトB:110g → 合計570g(19.57オンス) 【タ ッ プ】シャフトA・・・オールド・チャンピオン /シャフトB・・・カムイU-S 【グリップ】Buddy's(TAD純正ライトグリーン/ホワイト) 【コメント】1984年製。ランドの手による極初期のマスプロライン。日本に1本のみ。 このキューは、1988年に入手。 1985年に米国から持ち帰った物を私の師匠に譲った人がいた。 東京武蔵小山のポケットという店の常連のK君というコックがこれを師匠 から譲ってもらい愛用していた。 当時、突き抜けるような澄んだ独特の音がして、仲間内で評判だった。 K君は「シュピーンという音がする」と表現していた。 押し引きがよく利くキューで、とりわけ引きが利いた。 手玉の細かいコントロールもしやすかった。 誰もがK君に譲ってくれと頼んでいたが、彼は頑として譲らなかった。 私も30万円で売ってくれと持ちかけたが断られた。 K君はこのショーンR-21でマスワリを量産していた。 それまで、借り物で使っていたTADのステイン坊主をそろそろ持ち主に 返さないといけないと思っていた矢先、ひょんなことから1987年に私は リチャードブラックのブシュカモデルを入手した。 当時ブシュカの日本国内の定価は57万円(米国内価格1500ドル)だったが、 私は直接輸入した人から国内末端価格より安く手に入れた(30万円)。 しばらくブシュカを使っていて、ある時、バーのカウンターで一緒に K君と飲んでいるとき、彼が私のブシュカを大変気に入っていることを 明かした。 私は 「とっかえる?」 と言ってみた。 彼の返事は、 「とっかえる?」 互いにその後、5秒くらいの沈黙。 そして二人が同時に口にした。 「商談成立」 二人とも酒を噴き出しそうになった。 握手を交わしてリチャードブラックとショーンを取り替えっこした。 その後、現在に至るまで、この子は私の手元にいる。 当時の仲の良かった球撞き仲間で今は台湾にいるK.Aという女子プロが ある試合のとき自分のキュー(彼女は宝石とか自分でインレイして 自作カスタムしていた)のタップを飛ばしてしまい、代わりにこの私の ショーンを使ったことがある。 最近の彼女のファッションと違い、当時の彼女は普段からフォーマルな 装いをしていてとてもエレガントだった。 豹柄づくめの最近の彼女を知る人には信じがたいだろうが(笑)。 カジュアルな服にしても、ケバケバしくなく、くどくないセンスの良さ を漂わせていて、私たちは彼女のことを「お嬢」と呼んでいた。 まだ彼女が20歳くらいの頃の話だ。 その彼女はこのショーンで撞いて「うわっ!このキュー、いい音がするぅ〜」 と目を丸くしていた。 まだ誰も彼女のことを「おねえ」だとか「姐御」だとかは呼んでいなかった。 彼女はときどきドラマや雑誌のモデルとして仕事をしていたが、売れない 女優の常で、いっつもピーピーしていた。 そのくせ、毎日何時間も球を練習するので、やっぱしピーピーしていた。 当時の球仲間とは、笑いあり涙ありで、熱い時間がゆっくりと流れていた。 バーのカウンターで横に寄り添うように座る彼女にいきなりグーでパンチを くらい、鼻血ブーとなってカウンターを血に染めたのも、今となっては遠い 日の良い思い出のひとつだ。 約束していた唐十郎さんの芝居や、新宿ゴールデン街の「古茶(こちゃ)」 に連れて行ってあげなかったのが唯一の心残りだ。 彼女はいつでも、傍で見ていてハラハラするくらい一直線に熱く生きていた 真面目な女の子だった。 さて、このショーンは型番が不明だった。 1980年代当時、国内のディーラーは限られていた。 ディーラーが輸入するショーンの型番も限られていた。 このショーンはアメリカから帰国した人が直に持って帰ったこともあり、 国内に入ってきていた型式には同型がなかったたため、まったく型番が 分からなかったのだ。 ショーン社に直に手紙を書いて型番の確認とユーザーの声を届けようと したが、当時はインターネットなどもなく、住所を調べるのさえ大変苦労した。 私はまず国内でショーンを扱っている業者に事情を説明してショーン社の公開 されている住所を尋ねようと思った。 しかし、国内業者は悉く門前払いだった。 ただ単にいちユーザーとしての声をショーンに届けることさえ、バブルに浮かれた 「売り手市場」に枕を高くする多くの業者の了見の狭い権益意識に阻まれようと していた。 現在大手となっているある業者などはかなりぞんざいな対応で、大変不愉快な 思いをした。 そんな時、現NBA理事の西尾学氏が当時経営していた株式会社コスモの直営店 赤坂グリーンテーブル(現ビリヤードスペースコスモ)のオーナー西尾修(学さん のご子息)さんが便宜を図ってくれてショーンの住所、ショーンの手書き(!) カタログの写しを渡してくれた。 このときから、私とグリーンテーブルの深い付き合いが始まる。 後年、西尾氏はコスモを磯本氏に売却してコスモは西尾氏の手を離れたが、 私にとってコスモとグリーンテーブルは、今でも決して忘れられない存在だ。 (個人的にもオサムさんとは仲良かったしぃ・・・笑) さて、このときの一件で国内業者の性根に憤慨した私は当時のビリヤード専門誌 『ビリヤードマガジン』(通称ビーマガ)に長文投書した。 すると、程なく、全文未削除のまま掲載されてしまった。 情報入手経路が現在ほど豊富でなかった時代、雑誌やTVが情報発信基地として負う 重みは現在よりもずっと重く、編集部としても当時のビリヤード界の業者の高慢さ を憂う読者の声を重く受け止めたのだろうと思う。
このキューのシャフトのリングはTADやJoss Westのようなデザインで、 88年当時すでに生産されていなく、スペアシャフトが手に入らなかった。 それをどこからか西尾オサムさんが見つけてきて私に譲ってくれた。 それがBシャフトだ。 私のために内緒で探してくれていたらしい。嬉しい話じゃないか。 もし私が「いらないよ」と言ったならば、仕方ないから自分が新たに 買い込んだショーンのスペアにしようと思っていたという。 リングのデザイン合わないのに。。 これまた何だか迫る話だ。 当時の東京の友人はそんな感じだった。 口は悪いが人は悪くない。 当時勤めていた職場の上司の先祖の山口素堂が作った川柳に 「江戸っ子は五月の空の吹流し 口先だけでハラワタはなし」 というのがある。 古典落語にもある。 「おう。かかあ。隣りのクマが銭なくて今晩の飯が食えねえとよ。なんかねぇかい」 「あいよ、おまいさん。これ持ってってやんな」 「ほいきた。・・・お〜ぅ。持ってったらクマの野郎喜んでたぜ。ところでおいらの晩飯は?」 「何言ってんだい。今おまいさんが持ってったじゃないか」 「あ。そうか。ったくしょうがねぇなぁ俺ぁ。我慢すっか」 東京の人間特有なのかもしれないが、ホントに損得勘定抜きで隣人と付き合う。 江戸の土地柄なのだろうと思う。 オサムさんは続ける。 「俺もね、ショーン買ったんだよ〜」と嬉しそうに発売されたばかりのショーンSPを 「きょうが初撞きです」と見せていた。 「シャフトいらないと言われたらどうしようかと思ってたよぉ〜」とも。 当時、今と違いショーンは「希少品」のイメージが強く、代理店も少なかった。 オサムさん自身の店も代理店ではなかったので、個人で輸入したのだろう。 日本に入ってきていた今でいうカスタムといえばTADくらいなもので、ショーンも もジョスも品薄の時代だった。 ジョスは目黒のアルファインターナショナルが総代理店で一括輸入していた。 そもそも、今の概念でいうところの「カスタムキュー」という言語が80年代には存在 しなかった。 TADは単にTADだったし、JossはJoss、メウチはメウチだった。 メウチなどは特注品が上野のショップに展示され、定価120万円という値札に驚いた。 これなどは、プロダクトメーカーでも一品物なので本当の意味でのカスタムだったろう。 バラブシュカでさえも「カスタム」という概念では発想されず、単にバラブシュカ。 現在でいうところのカスタムの概念がないから、アダムなどは「アダムカスタム」と 自称していたくらいだった。 現在に続く「カスタムキュー」という用語と概念が普及したのは、プロダクション メーカーが80年代末期のビリヤードブームに乗って大量生産を始めてからだ。 ブームの後ろ風に乗って企業としての量産メーカーが多くのキューを供給し出し、 それに対抗する意味で少量生産の個人ビルダーが「カスタム」という概念を打ち出して 色分けを図って生き残りの道を探った経緯がある。 本来のカスタムとは、誂え品の一品物のことをいう。 厳密には、個人ビルダーの作でも同じモデルや定番モデルをリリースしているメーカー の作はカスタムとは呼べない。 TADなどは数千本の作品が世に出ているし、ジナにしてもシュレーガーにしても、ガス にしろバラブシュカにしろ、同じデザインの物がある限り「カスタム」ではない。 だから厳密には現在の「カスタムキュー」という用語の使い方は「個人ビルダー作」と いう本質的概念にベールをかけて販売業者が買い手の高級嗜好を煽っている商業主義 的な性格を有していることをユーザーは見逃してはならない。 さて、1990年頃、私はあることがあって玉撞きの世界から足を洗うことになった。 しかし、このショーンとアダム86-9だけはずっと手元に置いていた。 その後、1997年に転勤で生まれ育った東京を離れ、岡山でW君と出会って玉撞き を再開した。 しばらくして、このショーンと出会った当時の私のように、今や渓流のフライフィッ シングの旅を一緒にするようになり親友となったW君がこのショーンに惚れ込んだ。 「譲ってくれ」という。 「いくら?」と私が聞くと、「2万円・・・」と言う。 「冗談とフンドシはマタにしてね」と一蹴したが、彼のご執心は収まらない。 「もし、この他にプレーキューを使い出したら返す」という条件付で彼に貸与する ことにした。 私は、その年に縁があって高松の友人から譲り受けたTADを使うことにした。 その後、A級の彼はこのショーンでいろいろな成績を残したようだ。 だが・・・。 ある大会の試合のとき、W君は重要な球をトバし、自分に怒り心頭でキューを床に ドン!と叩きつけた。 瞬間、破裂音に似た音が辺りに響き渡った。 キューを床に叩きつけたことにより、キュー尻のバンパーゴムが圧縮されて 横に膨らみ、エンドキャップを内部から爆裂させたのだ。 マッツァオになったA級のW君、その試合結果はボロボロに負けたという。 その後、彼は1999年に登場したアダムのA.C.S.S をすぐにメインキューにした。 ショーンはリペアに出そうとしたが、なかなか引き受けてくれる業者がいない。 ショーン本社に送ろうとしたが、バットスリーブの黒檀部分に象牙のインレイがある ため米国内に持ち込みが許されないので、ショーン社での修理は不能であることも 判明した。 そうこうしているうちに、岡山県内の某メーカーがリペアを引き受けるとのことで 修理に出したらしい。 しかし、待てど暮らせど業者からはナシのつぶて。 事情を知った私は、2004年に半ば強引にこのショーンを引き上げた。 見るも無残な状態になっていた。 爆裂したエンドキャップではない。 何をしようとしたのか、バットのフォアアームには接着剤と風化した輪ゴムが こびりついていて、クリア部分は妙な曇りだらけ、グリップは超下手糞な糸巻きが 施されていた。 また、このメーカーの若い副社長はビリヤードの腕はA級なのだが、人格はA級では ないらしく、某大会で私が対戦したとき、すこぶる態度が横柄で非常に印象が悪かっ た。 この新進メーカーに対する私の評価はこのショーンの一件で確定的になった。 相変わらず何年経ってもビリヤード業界の業者なんてこんなもんか、とも思った。 私は家に持ち帰ったボロボロになったショーンを毎晩時間をかけて磨きあげた。 幸い、ショーンのクリア塗装はシアノかと思うくらい硬質で層が厚いので、コンパ ウンドとワックスで時間をかけて丁寧に仕上げたら往年の輝きが蘇った。 問題は爆裂キャップだ。 20世紀末に私はインターネットを始めていたので、ネットでいろいろな個人のリペア マンをリストアップした。 そして、知り合ったのが千葉のBuddy's Cue Repair Wark Shopの藤田氏だった。 メールで連絡を取り、すぐにANAで広島空港から羽田に飛んだ。 羽田で私を迎えた女性は爆裂キャップを見て「わぁ。犬がかじったみたい」。 この無残なエンドキャップが果たして綺麗に直るのだろうか。 一抹の不安がよぎる。 翌日初対面したBuddyさんによると、通常の依頼はメールでの打ち合わせの後、郵送 というのが普通らしいが、遠方からキューのリペアの依頼のために訪問するという 人間は珍しいらしい。 半分私が無理やりアポイントを取って、Buddyさんの家に押しかけていったような ものだ。 それまでメールでやりとりはしていたが、本質的に「ネットでの出会い」という ものに私はまったく信頼を置いていなかったので、実際の人物とリアルで会って 互いの見解が合うようであれば正式に依頼をお願いしようと思っていたのだ。 偶然、Buddy藤田さんは私と同学年だった。 そしてこれまた偶然に、1988年のある時間、赤坂グリーンテーブルの店内に私たち 二人は同席していた。本人たちは面識がないので、すれ違っているか、ひょっとする と、あるいは隣の席に座っていたかも知れない。 さらに恐ろしい偶然は、Buddyさんが住むこの分譲団地に私は過去に来たことがあったのだ。 1990年、虎ノ門にある私の職場の弁護士がこの団地から近所のマンションに引っ越す のを私は手伝いに行った事があったのだった。 しかも、その上司が住んでいた部屋は、Buddyさんと同じ棟だったのだ。 JRの駅からバスに乗って高台の団地に向かっているときから懐かしさに似た妙な感覚 がわき起こっていのだが、団地前のバス停に着くまでそれが何だか分からなかった。 団地内の敷地に入って歩き出し、芝生や植木や建物を見るにつれて「あれ?あれれ?」と いう具合になった次第。 偶然というか、人のエニシというものは不思議なものがあるものだ。 彼といろいろビリヤードやキューのことについて話を交わすと、同学年ということを 抜きにして、妙にウマが合う。 彼は爆裂ショーンのエンドキャップ修理は、独自の構造を試してみることにしたら しい。 キューを持ち込んだとき、彼が探して手に入れてきたという特殊工具を使ってショーン のウエイトボルトを二人で外した。 一人の力ではとてもじゃないが回らない程ネジが固く締まっており、私より先のショーン リペアでは、ネジが外れなかったため、ウエイトボルトを残したまま外周をかぶせる 方式で仕事をこなしたという。 今回もなかなか回らないので、ちょっと荒技でエンジンをバラすような工具の使い方で 二人して力技で無理やりウエイトボルトのネジを緩めた。 接着でもしてるんじゃないの?と思うくらい固かった。 大の男二人でヒーフーいいながら回した。 外してみて初めて判ったのだが、ショーンはエンドキャップ+ウエイトボルトの構造と 形状がバラブシュカのフルコピーだった。 構造をコピーしていたのはジョイント部分だけではなかった。 ロバート・ランドは細部に渡る構造までバラブシュカの設計思想を踏襲していたのだ。 ようやくボルトが外れたので、あとはBuddyさんの受注工程の最後に私のリペア工程 を入れてもらうことにした。 この時は、糸巻きとスリーブ塗装も作業メニューに追加したのに加え、Buddyさんの受注 が多いため、完成は半年後くらいになるという。 数ヶ月して彼から画像付のメールが来た。 添付画像はリペア途中のエンドキャップが写っていた。
塗装を待って、爆裂ショーンはきれいにリペアされて我が家に帰って来た。
それから私は、TADをメインに、このショーンも80年代の頃のように使いまくった。しかし、数年経った今でもまったく傷をつけてない。もともとショーンという語源はドイツ語で「美しい」という意味。 このキューをケースから出したとき、多くの人が「おぉ、綺麗だ」と言う。 ショーンのオリジナル塗装の見事さは特筆ものなのだが、スリーブ部分のクリアリペアに負うところも大きい。 現在、私が住む地元の撞球仲間たちも、Buddy'sの仕事ぶりの確かさを見て、彼に リペアを依頼することが増えている。 私も、Buddy藤田さんとは、機会あるごとに一緒に飲んだり食事に行ったり、依頼者 とリペアマンという垣根を越えた友としての付き合いをさせて頂いている。 このショーンは、私を見てきた。 私が玉をやめた時も、玉を再び始めた時も、常に私と共にあった。 私は死ぬまでこのショーンを離さない。 |
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