| COLT SINGLE ACTION ARMY (S.A.A. ピースメーカー) ウエスタン・アームズ | |||
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ABS樹脂モデルガン | |||
ウエスタン・アームズ・コルト・ピースメーカー 4.75インチバレル(3rd)
<データ>口 径:.45(実寸=.44口径モデル) 重 量:530g(空シリンダ) 650g(カート装填) 銃身長:12.05mm(4-3/4in) 全 長:260mm 装弾数:6発(カート内発火方式) 価 格:シビリアン ¥5,800 フロンティア ¥6,000 キャバルリー¥6,000 別売りカート ¥1,000 (1978年発売当時)
<麒麟児ウエスタン・アームズ>(文中敬称略)
ひとりの少年がいた。 東京が焼け野原になった数年後に少年は生まれた。 少年は子どもの頃から玩具の銃をいじくりまわしていた。 東京生まれの少年は、上野のアメ横に子どもの時からよく通っていた。 戦後から15年たった頃のアメ横は、玩具銃メーカーが軒を連ね、ガンマニアにとって聖地だった。 まだ一般家庭にテレビジョンが普及していなかった戦後から十数年後までの時代、人々の興味の対象は戦後に日本にやってきたアメリカ映画と街頭テレビに写る力道山や巨人の川上だった。アメリカ映画の代表は西部劇だった。 西部劇は戦後に強くなったストッキングと同じく、アメリカを象徴するアメリカそのものに日本人の目には映った。 1950年代には日本国内でもウエスタンミュージックと共にカントリーブームがやってくる。代表的なミュージシャンは平尾昌晃だった。 60年代初頭に入り、国内ではそれまでマテル等の輸入品に手を加えて販売していた日本モデルガン協会という店舗がMGCと名前を変えてリアルな模擬銃を製作した。 世界初の「モデルガン」の誕生だ。 当時の上野では、一番多くの銃装品を扱う店は中田商店という店だった。 中田も他のメーカーと同じく、MGCより後発メーカーだった。 1950年頃の上野アメヤ横丁。 戦後のヤミ市の軒が並んだこの町では 米軍の放出品が多く売られた。
1965年にMGCが同業者組合を脱退し、他社へのモデルガンの供給をストップしたとき、他社は力を合わせて製造から販売までのネットワークを作った。この「MGC対同業他社」という業界構造はこの後15年以上続く。 この同業他社間で作られた組合の中心的な存在が中田商店だった。 当初は、丸真という亜鉛ダイカスト製造業者にモデルガンの製造を委託して、他社がそれぞれ自社のブランドで販売する方式が採られていた。 1965年というのは日本の実銃界、トイガン界にとってターニングポイントとなる 重要な年なので少し長くなるが説明しておこう。 実銃の所持の際、更新時に精神疾患に罹患していない旨の医師の診断書が必要になったのは1965年の7月15日からだ。 この時の銃刀法改正により、銃砲店で銃を購入する際にも、精神病でない医師の証明書と住民票の提出が義務付けられた。 この時はこの年の2月に名古屋で起きた「西村事件」によって銃刀法改正に至った。 「西村事件」とは、精神疾患で治療を受けていた西村貞助が合法的に猟銃を所持して喫茶店に実弾を発砲した事件だ。 この1965年の銃刀法改正に連動して、モデルガンメーカーのMGCもモデルガンを購入する客に7月1日発売のブローニング.380から住民票を提出してもらうようになった。 小売店からは不満が出たらしいが、MGCは住民票提出を小売店にも求め、18歳未満には販売禁止という指示も出した。 玩具購入に住民票提出とは、まるで玩具が実銃に準ずるかのような印象を世間には与える。 後に、これが更なるモデルガン規制の銃刀法の改正に繋がる布石となってしまう。 同年8月1日、MGCは小売り店へ強硬方針を指図する一方で、それまで販売委託をしていた各小売店と関係を清算して自社利益追求のためにアメ横に直営店である 「MGCボンドショップ」を開店した。 これにはアメ横の他の小売店は大きな不信感をつのらせ、一斉にMGCに抗議した。 なぜならば、それまでMGCのモデルガンへの関わりは「製造卸」を受け持つものであり、 そのMGCから卸売りで仕入れた小売店である中田商店、江原商店(CMC)、 ホビース商会、マルホコルト商会といった店が「小売り」を受け持つという 円満な取り引き関係が成立していたからだ。 MGCが直営店で自ら小売り業にも手を出すということは、それまでの製造卸→小売り という流通ルートを断ち、商店街の共存共栄の利害関係を根底から崩して自己権益 のみを確保することに繋がるものだった。 70年代に大手スーパーなどが商店街に進出して八百屋や酒屋の存在に壊滅的打撃を 与え始めるずっと前の時代だ。 MGCは小売店に対して「不満を言うなら商品は卸さない」との独占企業の倣岸な態度 を貫いた。 やむなく、小売店側はMGCとの取り引き関係を終了させるに至った。 しかし、小売り店側には大きな問題が立ちはだかった。 当時国内流通モデルガンの殆どはMGCからの供給だったので、売るべき商品そのもの がなくなってしまったのだ。 日々のたつきが立たない死活問題だった。 小売店側は急場凌ぎにウルトラCの裏技に打って出た。 中田商店にいた職人の六人部登に無稼動文鎮モデルを急いで製造させ、マルシン ダイカストにブローニング.380やPPK等のMGC製品をフルコピーさせて、組合のオリジナル 商品として販売したのだ。 カタログも反MGC各店舗が相乗りで自社ブランドを併記させたものを用意して、 横の利便性を図り、客離れを食い止める努力をした。 1970年代後半頃まで、フルコピーの製品があたりまえのように流通していた のは、実はこの1965年の銃刀法改正をめぐってMGCが採った方針と対応による トイガン業界内部の対立を背景としていたといわれる。 また、小売り店組合側は、65年の夏頃、急遽、六人部にMGC製品コピーでない オリジナル・モデルの設計を委託した。 1965年9月、TOKYO CMC(旧江原商店)が非MGCの国内第一号モデルガンである コルト・ガバメントの製作を発表した。 MGCの小林(現タニオコバ代表)は実は職人・デザイナーとして六人部とは仲が 悪くはなかったのだが、小林vs六人部、MGCvsCMC・中田陣営と捉えられた構図 はこの頃から発生して、1980年代まで続いたのだった。 MGCは、製品の供給を受けられなければ小売り店はMGCの指図に従うだろうと たかをくくっていたのが予想外の展開となってあわてたのか、反MGC同盟が粘り 強く創意工夫で凌いでいく様を見て、あれ程強圧的に申し渡していた18歳未満 にはモデルガンを販売しないという方針を急に撤回する。 しかし、まったく実効力を伴わない住民票の提出要請はそのまま継続させた。 これは、一見メーカーの良心的な自主規制のように思えるが、犯罪抑止力としての 実効性には大きな疑問が残るといわざるを得ない。 それどころか逆に、この住民票提出は、あたかも「モデルガンは危険で実銃に 近い物」との印象を当局に植え付け、「実銃まがいの模造銃というものはあっては ならない」との旨をより強固に物理的に体現させる1971年の大規制の誘い水として 作用して行くことになるのである。 そして、そのMGCによる顧客への住民票提出要求は、71年大規制実施に至るまで継続 されたのであった。 当初のMGCの方針が犯罪防止への協力という観点からのみだったならば、やろうと 思えば銃身を貫通させる改造が可能だった71年規制製品の構造上、71年以降も住民票 提出を求めた筈だろう。 現実問題として、明らかに構造的にモデルガンの改造不能性が確保されるのは77年 のsmG規制まで待たねばならなかったからだ。 つまり、住民票提出は、モデルガンの安全性普及促進や悪意ある改造の防止ということ については、なんら実効性をもたなかったのだ。 結局は、当局へ顧客の個人情報を横流ししただけであり、これで喜ぶのは誰かという ところをよくよく考えないといけない。 しかし、71年規制後、即座に住民票提出要求をとりやめたところを見ると、どうやら、 中身のある実効性を勘案してのことではなくて、単なる当局へのゴマ擦りと小売り店 潰しの意図が当時のMGC首脳部にあったことは明白である。 業界先駆者のMGCこそが共同歩調の礎となって求心力を持つべきところ、自己権益に 走ったがために、歴史的に取り返しのつかない事態を惹起させたといっても過言では ない。 プラスティックの表面を金属でメッキして黒くすることが「公認」されている現在、 亜鉛合金という脆い金属モデルを金色や白に染めることがいかに中身のないことで あるかは、もはや歴史的に証明されたといってよい。 「実銃に見間違う」ということであるならば、プラスティックの肌の方がよっぽど 実銃に近い時代になってきたからだ。 このことひとつをとってみても、実は表面の色などどうでもよく、国家が何を規制 したがっていて、また民間メーカーが何に手を貸してしまったかが浮かんでくる。 そこには、製品の安全性確保や国民の趣味的興味の満足という牧歌的な次元とは 異なる意図が働いているのだ。 歴史にIFはナンセンスとは知ってはいても、MGCはもっとやり方があっただろう、と 思わざるを得ない。 当時のトイガン業界の結束力の欠如と内紛が無条件に黄白規制を呼んだことは 間違いなく、トイガンユーザーの側が望んで規制を運んできたのでないことは 疑いようのない事実だからだ。 メーカーの独善や不協和音がもたらしたものは、実銃が大量に存在する外国から 見ても奇異としか映らない程の取り返しのつかない事態を法規として歴史に残して しまったのであり、その責任は重い。 当時は現在と違って、住民票どころか他人の戸籍までも誰でも閲覧でき、謄本が 取り寄せられるような人権もへったくれもない時代で、そうした制度上の後進性 が多くの悲しむべき差別事件を生んだ。 MGCの行ったことは、プライバシー問題という現代の眼で諮ることはできないが、 それを抜きにしても余りある責任が問われる行為だったといえるだろう。 これは、製品の良し悪しとは別の次元の問題として歴史の中に刻まれた事実として 私たちの前に横たわる。 現在MGCという法人は消滅したが、つい先年までトイガンファンがそれとなく 感じていた「MGCとその他のメーカー」という二極構造の印象は、実は1965年の 銃刀法改正に端を発する商売上の対立の問題から連綿と続いていたものだった のだ。 今でこそ、金で頬を叩く企業買収を社是とする人物が国会議員に立候補したり しても恥知らずとは思われないが(そうか?)、考えてみるとMGCは、1965年 当時、20年後、30年後のアメリカ式の自己権益確保第一という経営方針を打ち 出しただけかも知れない。 だが、それは、戦後から培って細々と復興を成し遂げてきたきたアメ横の商売の形 をあまりにもないがしろにして踏みにじるものだったのだ。
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