COLT SINGLE ACTION ARMY (S.A.A. ピースメーカー)4'75"インチバレル   タナカワークス   
                                                         ガス/ペガサス・システム
実銃2nd <実銃データ>

S.A.A. 2ndジェネレーション

口  径:.45ロングコルト
      (11.43mm)
重  量:970g
銃身長:12.05mm(4-3/4in)
全  長:260mm
装弾数:6発
初 速:262m/sec-556J
    (弾丸16.2g=250gr)
相 場:約 $1,300〜$6,000-

実銃S.A.A.2ndジェネレーション・アーリーモデル(初期)のニッケル仕様。
コルト黒箱入り1959年製。ミント状態未発火モデルで価格は5,700ドルになる。



<コルト小史>
歴史に刻まれた銃がある。
コルト・モデル・シングル・アクション・アーミー。
19世紀の後半の西部開拓時代に、アメリカ国家と人民によって最も親しまれたその銃は「調停者=ピース・メーカー」という愛称で呼ばれ、後年、「西部を征服した銃」とアメリカ人の殆どに認識された。
この銃が生まれる以前、拳銃の世界では、大きな変革が起きようとしていた。
それは、ひとりの青年によってなしとげられた。
サミュエル・コルト
その男の名は、サミュエル・コルト(1814-1862)。
サムは、母の祖父がコネチカット州のハートフォードで最初の銀行を設立し、また彼の父は、西インド諸島貿易で富を築いた裕福な家系に生まれた。
しかし、彼が幼い頃、家はかなり経済的に苦しくなり、彼と兄弟たちは親戚の家に預けられたりした。
10才〜12才の期間、サムはマサチューセッツにある父親の会社の製品を作る製糸工場へ働きに行きながら私立学校に通った。
彼は、学校では、化学と電気に興味を持つようになり、電流で火薬を爆発させて水面下の鉱山発掘などを行った。
15才の1829年7月4日、彼は、爆破が成功する旨を宣言するビラを配り実験をしたが、うまく行き過ぎて爆発が非常に大きかったため、村人たちを水浸しにしてしまい、村民から追いかけられたりした。
1830年、16才になった冒険好きのサムは、父親のはからいで海外に渡航するようになった。ロンドンとカルカッタに向けて出航した船の上での彼の風貌は、大層海の男っぽかったと記録されている。

サムはその航海の途中、船員の航海術を見ていてあることを思いつく。
回転式拳銃の発明だった。
それ以前にも厳密には回転式拳銃は存在した。
しかし、それは手で弾倉となる輪胴を回すものであり、ハンマー(撃鉄)を引き起こすことによって輪胴(シリンダー)が自動的に停止し、あとは引き鉄を引くだけで次弾が発射できる新案は、サミュエル・コルトその人の考えたシステムだったのである。

彼は、この画期的なリボルバー・システムのパテントを取得するために1831年に渡航経験のあるボストンへ戻った。
父親からの金銭援助により、彼は2つのライフルのような長銃身プロトモデルを作り上げた。
だが、この最初の試みは失敗に終わる。

特許出願図
特許出願の際のコルト・リボルバー図面。
長銃身のライフルタイプは何と10連発だ。
拳銃タイプのリボルバーはこの後、1835パターソン・プロト・
モデルとなる最初期のデザイン。
シリンダー後端に装着するパーカッションキャップの
キャップ装着部が間仕切りされていないため、1発撃つと
他の部屋の発射薬を友爆させてしまった。
後年、パーカッションキャップ装着部に仕切りが発明
されるまでは極めて危険な銃だった。
ハンマーとシリンダーが連動する構造のアイデアは
歴史的な金字塔といえるが、銃自体は失敗作である。

パターソン・プロトモデル
コルト・パターソン・プロトモデル・リボルバー。1835年、ジョン・ピアソン製作。
.36口径、6連発の拳銃タイプ。最初の失敗から3年後に完成したColtにとって歴史的に
極めて重要な一丁。銃身下部にライフルモデルのハンドガード様のカバーが見られる。
なお、この画像の個体には、銃剣が内装されている。
このことから、初期の短銃というものがどのような対敵距離と使用法を想定していた
ものであったかが窺い知れる。

1作目は発射機能において失敗、2作目はシリンダに雷管仕切りがなかったため、連鎖着火を起こし友爆してしまった。
サムは、別な仕事によって生計を立て、こつこつ貯金をしながらリボルバーの開発を継続していくことを決意する。
彼は、「ニューヨーク、ロンドンおよびカルカッタの有名なColt博士」と自称し、3年間「実際的な化学者」としてカナダとアメリカを旅行して、亜酸化窒素を使った奇抜な実験デモンストレーションにより収入を得ようとした。
彼は25セントの入場料を取りデモ・ショーを行う。
ガスを吸入した人々は、数分間酔ったような状態になり、聴衆には結構ウケたようだ。

M1836パターソン その後、サムはリボルバーの改良のためにボルチモアのジョン・ピアソンを雇うが、ピアソンは体調を崩し仕事が思うように進まない。しかし、どうにか彼のリボルバーは形になった。
サムは、ピアソンの父親から1,000ドルを借りて、イギリスで特許を取得するためにヨーロッパへと渡った。
当時、大英帝国の威信はまだ健在で、イギリスでの特許が先進国のどこよりも権益として有効だったからだ。
サムは、イギリスとフランスで特許を取得した。
新しい形の彼の銃は、コルト・パターソン・モデルと呼ばれた。

1836年に実用新案の特許を取得した彼は、地元米国の議員によって援助を受ける。
かつてないファイア・パワーは旧式の銃を遥かに凌駕することをアピールした彼は、ダッドレー・セルデンやニュージャージーのぺーターソンのPatent Arms製造業会社グループに約200,000ドルを投資している他の数人のニューヨーカーたちの援助も取り付けるに至る。
サムは、そのうち3分の1の権利を買うオプションを得た。
しかし、1,000ドルの年棒はかなり大きい必要経費で消えていった。
また、軍隊も火打ち石を用いる旧式銃に満足しており、なかなか軍を中心とするシェアを確保することは困難だった。

パターソン 1837年にはネイティブ・アメリカンを征服しようと試みた軍部によって100挺のコルト・リボルバーが発注され納品された。
しかし、軍部と政治家のさまざまな圧力が絡み、コルトは100挺あたりたった40ドルでカービン銃の受注を受けざるを得ず、会社は存続が立ち行かず、1842年9月に莫大な債務を背負ってカンパニーのドアを閉じるに至った。
官僚政治家にうんざりしていたサミュエル・コルトのこのとき以降の苦難といったらない。
病気、製品のバージョンの見解を巡る争いから手斧を振る男を会計士だったサムの弟が過剰防衛で殺害、恋愛、隠し子、訴訟、と彼を中心に家族の中でも悲劇がつのり、彼自身も荒れに荒れた。

それは、この期間に彼のたどった道のりだけでも、膨大な小説がかけそうなくらいに。
弟のジョンは正当防衛を主張したが裁判で認められず、絞首刑を宣告される。
サムが面会に行った時、ジョンは獄中で自殺していた。。。

コルト・パターソン・モデル
保存状態が素晴らしいコルト・パターソン・モデル。コルト・ブルーの肌が美しい。

それから数年後、サムはモールス博士の知己となり、電気メッキ磁気電信の世界で彼はバッテリー会社を設立して共同研究を行う。
サムが作ったケーブルは水中を横切るように敷設しても電文を伝えることが出来た。
この魅力的な電信性能は、ワシントンからボルチモアにワイヤーを40マイル引くことの契約を成約させるに至った。
さらに、電信協会はコルトのこの新設備を利用してニューヨークからロングアイランド及びニュージャージーへ電信ラインを建設する契約をサムと交わすのである。
これより少し前、銀紙にヒントを得て金属薬莢の開発に力を注いで失敗していたサムは、この電信事業により実業家としても大きく前進するのである。

パターソン・テキサス 1840年代初め頃、彼の銃に対して軍部の中でも歓迎的な評価をする者たちもいた。
ごく初期のコルト・パターソン・モデルはテキサス・レンジャーズによって名声を獲得していたのだった。
だが、例えば、1844年夏に、キャプテン・ジョンC.ヘイズおよび15人の放浪者が、約80人のコマンチ族をPedernales川での戦闘においてコルトの銃で半数を殺したことに代表されるように、コルトの銃は「先住民の征服」と「戦争」の中で際立った黒い光を帯びて行く。
実際には、2,700挺製造された.34および.36口径のパターソン・モデルのほとんどは、辺境の住民たちのポケット、ベルトおよびホルスター中で過ごしていたのが実情だったにも拘わらず。

開拓市民にとってはコルトの銃はなくてはならないものとなりつつあったが、その後起きた南北戦争というものによって、コルトの銃器は爆発的な量が生産されるようになり、その黒い光に一層拍車がかかって行くのである。
幸か不幸か、サム自身は、過労が祟り、肺炎により南北戦争の最中の1862年に47才の若さで亡くなっている。

南北戦争は「シヴィル・ウォー」などと米国人は呼んでいるが、南北戦争は、市民だろうが非戦闘員だろうが戦火に巻き込んで殺戮をすることと、軍備が勝っていた北軍によって南部地方への焦土作戦がとられたという点でそれまでの戦争とは大きく異なる。
焦土作戦とは日中戦争時代の日本軍の三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くせ)みたいなものだ。(日本軍は「燼滅作戦」と呼称していた)
また、この南北戦争は、それまでの世界の歴史を塗り替えるほどの大量の死者を出した戦争となった。
戦死者北軍359,528人、南軍約258,000人。これには重傷者やその後の死亡者は含まれない。
また、どれほどの数の戦災孤児と未亡人を生んだことか。
戦費は1865年4月時点で47億5000万ドル。総費用100万億ドル以上。
その金があれば、どれだけの黒人奴隷や貧しい白人労働者たちを救えたことだろう。

クラーク博士 北軍軍装に身を包む南北戦争当時のW.S.クラーク少佐。
来日して札幌農学校(現北大)で内村鑑三や新渡戸稲造など10名の学生を指導した。
よくいわれるように民主主義と教育とキリスト教の普及という奇麗事だけでなく、何らかの使命を帯びてこの元北軍少佐は日本政府に8ヶ月間のみ招聘されたものと思われる。
博士は北軍の歌が好きでよく歌っていたようだ。
最近、某大学関係の学者が書いた文章に、クラーク博士を無批判に賞賛するものを目にした。
曰く、「南北戦争に北軍少佐として従軍し、自らヒューマニズムを体現した」と。
まったくもって、ナンセンスである。
某学者の視点には、戊辰戦争時の西軍を官軍=正義とし、抗する東軍=幕府軍=賊軍とするような御用学者の思考停止の悲哀すら感じる。
戦争は正義vs悪という単純な図式ではない。
南北戦争は連邦議会におけるカンサス・ネブラスカ法案を巡る北部工業金融資本と南部綿花プランテーション資本家の西部地域のぶん取り合いであり、それはとりもなおさず、南部の民主党と北部の共和党の争いであった。
北軍は黒人奴隷解放のために戦ったのではないことは、リンカーンが奴隷制を継続させたまま連邦政府を存続させることが本意で、戦局打開のためにやむなく政治戦術として奴隷制撤廃をうたって、南軍を支援しようとした英国政府をけん制したことをみても明らかである。
敗戦統治下の南部での北軍の振る舞いに対して元南軍ゲリラや市民(白人資本家)が抵抗したのには理由があったのだし、北軍ゲリラが奴隷制廃止を表看板としたのも、実は政治的勢力に後押しされた事柄が大きく関わっていたのだ。


戦争は、破壊を繰り返し、その見返りに必ず死者を生産する。
22年間に渡りヨーロッパ全土を巻き込んだフランス革命戦争とナポレオン戦争の戦死者よりも、4年間の南北戦争の戦死者の方が倍以上多かった。
南北戦争は、20世紀に人類が踏み込んでしまう大量殺戮戦争の序章となる人類史上最も黒い影となる最初の戦争として位置づくといえるだろう。


南北戦争の銃弾 南北戦争は、それまでにない大量弾薬消費の戦争でも
あった。
激戦地では雨アラレのように銃弾が飛び交い、弾丸同士
が空中で衝突しあうのは茶飯事だったらしい。
戦場跡地の地面を掘ると、まるで多くの石ころが簡単に
見つかるが如く、いくらでも当時の銃弾が出てくるという。
この弾丸は、ボルチモア出身の友人のアメリカ人弁護士
が1992年に私にくれたもの。
彼の実家のそばの激戦地だった戦場跡地にて採取との
こと。直径14.5mm。
弾頭の形状から58口径用のミニエ銃弾であると推定
できる。
おそらく、北軍のエンフィールド銃かマスケット銃に
ライフリング施条の改造が施された銃身から発射され
て南軍側に射ち込まれたものだろう。
この弾は人を殺していない。
私はこの弾丸をフィルムケースに入れて、ラベリング
して大切に保存している。かつて恋人が手ですくい
あげてきた沖縄の砂浜の砂とともに。

ミニエ銃弾-1
南北戦争以前はライフリングのない銃身で弾丸は銃口から先込め
する方式が一般的だった。
銃身内にライフルが施条された新銃身は、銃口から弾丸を押し込む
ことは、銃身内壁の抵抗がかかりすぎて困難となった。
しかし、新式のミニエ銃弾は銃身口径よりも小さい弾頭を使用す
ることにより、銃身内にライフルが切られていても楽に弾丸を
薬室まで挿入できる形状となっていた。

ミニエ銃弾-2
ミニエ弾は、発射薬である黒色火薬に引火すると弾丸の尻につけら
れた鉄板が前進して弾丸後部を押し広げて銃身内壁に圧着させる
仕組み。戊辰戦争の際は薩摩軍がこれを用いて幕軍を圧倒した。
早合 狙撃手
後期には、弾丸を早く先込めするためにこのような紙のカートリッヂ
が発明された。まるで戦国時代に信長が使用した早合(はやごう)の
原理とそっくりである。



<金属薬莢を使用できなかったコルト>
サミュエル・コルトの死後10年を経たころまで、コルト社は悶々としていた。
それはかつて創業者のサムが研究した金属薬莢はスミス&ウエッソン社によって1855年にフランス人から買い取られたパテントが活用されて、他社は金属薬莢を使用した拳銃が作れなかったからだ。
ライフルの場合は、この新式の金属薬莢の弾薬を使う機構を南北戦争当時から取り入れていたが、拳銃の世界ではガッチリとS&W社が権利を押さえていた。
そのため、南北戦争中にも、S&W社以外は、回転弾倉(シリンダー)の中に発射薬である黒色火薬と弾丸をギュウギュウと詰め込んで、ハンマーで叩く部分に雷管をかぶせてから発射するパーカッション式の拳銃を製造せざるを得なかった。
パーカッション式は雨の日には当然火薬が湿気るから発射が出来なくなる。
映画『許されざる者』の中で、豪雨の中、町の酒場にたどりついたクリント・イーストウッドが保安官に誰何されて銃の所持をとがめられた時、「雨で火薬が湿気るから銃はもっていない」と言い訳をするシーンがあるが、なかなかリアルな台詞回しだった。
そのうち、ガンスミスたちによって、コルトM1851ネービーをはじめM1861に至るまでのリボルバーが金属薬莢式に改造されて、使用者たちにもてはやされるようになった。
市場ニーズを見て、やむなく、コルト社も自社のパーカッション式製品を金属薬莢式に改造せざるを得なかった。法外なロイヤリティーをS&W社に支払うことを避けながら。
おのずと、S&Wのパテントに抵触しないようにせねばならず、構造的には大きく制約された。
このように金属薬莢式に改造されたパーカッション式はコンバージョン・モデルと呼ばれた。

コルトによるコンバージョン
コルト社純正のコンバージョン・モデルのコルト・ポケット試作品。
口径.31。シリアルナンバーなし。
ベビー・ドラグーンの改良型であるこのコルト・ポケットM1849-.31口径は
南北戦争両軍および民間市場で大変人気を博し、1873年までに実に336,000丁
が製造され、世界各地で販売された。
1849年から1873年までは、米国で一番ポピュラーな拳銃だった。
一般的には知られていないことだが、ひょっとしたら、S.A.A.登場までの間、
西部ならず「世界を征服した銃」はこの.31口径のコルト・ポケットであると
いえるかも知れない。
コルト・ポケットは23年間の長きに渡り製造されたため、多くの個体がコンバー
ジョン・モデルに改造された。
一般市民はコンバージョン・リボルバーを1880年代に入っても使用していた。
アカデミー賞映画『許されざる者』の中で、イングリッシュ・ボブがサイド・アーム
としてショルダー・ホルスターに忍ばせていたのは、コルト・ポケットM1849
であった。
画像の試作品にはエジェクター・ロッドが後架装されている。


ガンスミスによるコンバージョン2
ガンスミスによるコンバージョン1
コンバージョンの1862ポリス。.38口径5発。通称ニューヨーク・シティ・モデル。
将校用として人気が高かったという。
画像に見られる通り、撃発後に空薬莢を排莢できるようにエジェクター・ロッドが
銃身の脇にセットされ、美しい曲線のローディング・ゲートも装着されている。
このタイプのエジェクターをメイスン・タイプと呼ぶ。
後にピースメーカーはこの原理を踏襲した。
また、このように段のあるシリンダーはリベイテッド・シリンダーと呼ばれる。
この個体は、総合的に精度の高いカスタム加工が施されており、仕上がりが美しい。
グリップの象牙も黄化して、深みのあるとても美しいクリーム色になっている。
象牙のこのような経年変化を専門用語で「パティーナ」と呼ぶ。
状態がさらに進むと、深い水飴色=濃いオレンジ色に変色する。
「パティーナ」という単語は象牙だけに限らず、古式銃の鉄肌を説明する時にも
よく登場する英単語である。
この画像個体と同タイプのM1861コンバージョンは、1890年代を舞台とした映画
『バッド・ガールズ』
の中で、主人公の女性ガン・ファイターがメイン・アームとして使用していた。


1850〜60年代、まさに金属薬莢はS&W社の独壇場だった。
幕末日本の坂本龍馬はS&W社の金属薬莢リボルバーを愛用しており、1866年1月24日に京都伏見の寺田屋に滞在中を幕吏に踏み込まれた際には、S&WモデルNo.1を発射して捕り方1名を射殺している。

S&W モデル1
S&W モデル1実銃。龍馬が使用したのはこれに近いタイプ

その後の龍馬自身の記録によると、この戦闘の最中に手を切られたらしく、カートリッヂの詰め替えのときに「手が血で滑って丸い円筒形の部品(シリンダーと思われる)を落として難儀した」というようなことを書いている。

S&W モデル
龍馬記念館に展示してある金属カートリッヂ式S&Wリボルバー複製。
上がモデルNo.2 .32口径。
下がモデルNo.1 .22口径。
上の銃はもともと高杉晋作のもので、上海で購入したものを龍馬に贈ったとされている。この銃本体は寺田屋事件で紛失と伝わる。
下の銃は、寺田屋事件の後、鹿児島に保養に行った龍馬とお龍がそれぞれ所持していたと伝わるが定かではない。
近江屋で暗殺された時、龍馬はこの銃を携帯していたが、なぜか銃は使わずに床の間の刀を取りに行き、旗本今井信郎の斬撃を刀で受けたが、今井に斬り殺された。





<西部を征服した銃>
S&Wの金属薬莢のパテントが切れる時期を見越して、コルト社は1860年代から金属薬莢を使用できる次期新式拳銃の具体的開発に入った。
設計を担当したのは、C.B.リチャーズとウイリアム・メイスンの二人といわれている。
そして、S&Wのパテントが切れると同時に新型銃のパテントを1871年に取得し生産に入る。
新型銃は、口径を.45という大口径にした。
それは、アメリカ陸軍が1870〜1872年の3年間、制式に採用していたS&Wリボルバーの.44口径で少ない発射薬の弾薬のパワーに不満を持っていたからだ。
1873年に満を持して発売されたコルトの新型銃は、銃身長を7.5インチとし、弾薬は.45口径の250グレイン弾頭を30〜40グレインの発射薬で発射し、800fpsという初速のマズルベロシティーまで持っていくという強力なものだった(現在においても、一部の弾薬を除いて.45口径250グレイン弾は圧倒的な打撃力を持つ)。
米軍の制式拳銃トライアルに出されていた正式名称コルト・モデル・シングル・アクションは1875年に晴れて陸軍に採用される。
陸軍トライアルに出されていたため、この新型銃はコルト・シングル・アクション・アーミーと呼ばれるようになっていた。
S.A.A.という名称の誕生である。
S.A.A.は銃身とシリンダーとグリップ周りが美しいガンブルーで染められ、フレームはケース・ハードゥンドと呼ばれる特殊焼入れが施され、ソリッドフレームの構造と相まって、とても耐久性に優れた。

SAA
コルト・シングル・アクション・アーミー 7.5インチ銃身モデル実銃(U.S.アームズ
社製復刻版)。
フルムーンと呼ばれる丸いエジェクターロッドヘッド、フレームの前部にあるベース
ピンスクリュー、シリンダー前部のフルートにかけての深い面取り、2ndのように
厚みがなく横から見た全体のRのラインが丸みを帯びたトリガーガード、後部まで
伸びた丸型のゲート(右側)、これらが1stジェネレーション・アーリー=黒色火薬
モデルの外見的特長だ。
無煙火薬時代の1stジェネレーション・レイト・モデルは丸めのトリガーガードの
形状を継承していたが、この部分は日本のMGCのモデルガンがよく再現していた。

この当時は、コルトは軍部への供給が主で、一般市場にS.A.A.がでて来るのは1875年からだ。
また、1875年には銃身長が5.5インチのモデルも市場に投入された。
1880年代、それまで軍に供給された7.5インチタイプの銃身が長すぎるため個人やガンスミスが改造の一種として銃身をカットして使うことが広く行われていたが、このことはそれだけ短銃身のニーズが数年前から存在したことを示している。
映画『ワイルド・レンジ』の中でケビン・コスナーが使っていたピースメーカーは銃身をカットして5インチにしたフロントサイト無しの物だったし、映画『シェーン』の中でシェーンが使うのは同じくフロントサイトを削り落とした7.5インチ銃身(より少し短いように感じる)モデルだった。
1879年には、さらに銃身が短い4.75インチ銃身のタイプ(通称シビリアン)もコルト社は市場に登場させる。
また、口径もこの頃は.44-40(.44口径で40グレインの発射薬)というタイプも製造され、これは銃身横にCOLT FRONTIER SIX SHOOTERと刻印された。
この.44-40は、1873年発売のウィンチェスターM73の弾薬と共通であり、M73ライフルに使用する弾薬を拳銃にも使えるというのは、開拓者にとって大変便利なことで大いにもてはやされた。
現在までの製造数では約半数が.45口径だが、西部開拓時代には.44-40が主流だったのではないだろうか。映画『ウインチェスター銃'73』で、女性にお守りとして1発のS.A.A.用カートリッヂを渡すシーンがあるが、それは.44-40弾だった。
.45 Long Colt弾使用のS.A.A.はピースメーカー(=調停者)、.44-40弾使用のSIX SHOOTERはシックス・ガンとも呼ばれ、ウィンチェスターM73ライフルと共に後年「西部を征服した銃」という王者の呼称を冠されるに至る。
しかし、総じて、販売代理店が名づけた「ピースメーカー」という呼称が一般的だ。
ピースメーカーの口径は.22リムファイアから.476センターファイアまで30種が作られたようだ。
銃身長はスタンダードラインナップとして一般的には7.5、5.5、4.75インチのものが知られており、また、2〜7.5インチのエジェクターなしのモデルも存在した。
日本では、4.75インチをシビリアン(市民)、5.5インチをアーティラリー(砲兵)、7.5インチをキャバルリー(騎兵)と俗に呼称されている。
余談だが、アーティラリーは日本では1980年代までは「フロンティア」と呼ばれていたが、米国人に5.5インチ銃身のS.A.A.を指してフロンティアと言ってもキョトンとされるだけである。
日本の明治天皇が所有したのは7.5インチ銃身のタイプといわれている。
また、発売当時はまだ無煙火薬が一般化しておらず、古式の黒色火薬を使用していたため、数発撃つとガンスモーク等でシリンダーに汚れがかなり付着した。
しかも、フルメタルジャケット弾はまだ発明されておらず、弾頭は旧式の無垢の鉛のままであるので、発射の際に弾頭が銃身根元を通過するたびに鉛のちぎれカスが吹き返してシリンダー前面に付着した。
これを掃除するためにシリンダーをゴシゴシこすっているとすぐにブルーが剥げてしまい、錆を誘発することとなる。
錆の発生を防ぐために、ニッケルメッキ仕様のピースメーカーも多く製造された。

SAA各タイプ
左からシビリアン、アーティラリー、キャバルリー
表面処理は、左からノーマルのケース・ハードゥン、オールブルー、ニッケルメッキ仕様
(画像は参考のため復刻クローンを含む)


<S.A.A.の仕様変更>
S.A.A.は何年かに渡り仕様が変更されて現在に至るが、基本構造はまったく変化していない。
如何に完成された機構であるかが分かる。
S.A.A.には大別すると1st,2nd,3rd,4thジェネレーションと呼ばれる仕様変更がある。
黒色火薬時代を含む1stジェネレーションはWWU直前まで製造されたが、S.A.A.130年の歴史の中でも傑作とされるのが1956年から製造が始まる2ndジェネレーションの初期型だ。
俗にアーリー2ndとも呼ばれている。
構造、品質、仕上げともに最高のトータルバランスを誇るもので、2ndの生産が打ち切られた後も、市場では高値を維持して取引されており、コレクターアイテムのように大切にして実際に発射しないで観賞用とするS.A.A.ファンもアメリカには多い。
S.A.A.の仕様の変遷等について、以下にまとめてみた。
(研究不足で齟齬がある場合は判明次第訂正します)

1871.9.19  パテント取得

1872.7.2  パテント取得

1873(1st)
 コルト社初の金属薬莢のモデル・シングル・
 アクションを発売。口径.45ロングコルト。
 銃身長7.5インチ。この年3,500丁製造。
 後のバージョンとの大きな外見的差異は、この
 初期モデルのエジェクターロッドヘッドは丸い
 フルムーンタイプ、シリンダベースピンはフレーム
 の下からスクリューで止めるタイプ。
 陸軍の拳銃採用トライアルに出されて、S&W社
 の新型銃が間に合わなかった背景と、コルトで
 は初めてのソリッドフレーム構造の頑丈さが功
 を奏して陸軍に制式採用される兆し。

1875
 パテント取得。
 陸軍に制式採用。以降コルト・シングル・アク
 ション・アーミーと呼称される。愛称はピース・
 メーカー。
 この年から、一般市場にもS.A.A.が登場する。
 併せて5.5インチ銃身のモデルを発売。
 .44リムファイア(RF)発売、1863丁製造。

1876
 シリアルナンバー2万丁台に。
 長銃身のバントラインスペシャルを約30挺製造。
 .456 Eley発売、163丁製造。
 英国向けモデル発売、スタンプ「DEPOT 14, PALL
 MALL LONDON」

1877
 .41ロングコルト弾発売。
 同時にコルト社初のダブルアクションM1877を
 発売。販売店での俗称は.38口径をライトニング、
 .41口径をサランダーとした。
 コルトのダブルアクションは作動不良が多く
 不人気だった。
 一方、S.A.A.はこの年から1909年までの間に
 166,849挺が製造された。

1878
 .44-40弾(.44口径で40グレインの発射薬)用モデ
 ルを発売。銃身横にCOLT FRONTIER SIX SHOOTER
 と刻印される。ウィンチェスターM73と同じ弾薬が
 使用できることにより実用上の利便性を図る画期
 的試み。一般市民には雷管(パーカッション)
 タイプの拳銃がまだ一般的だったが、この口径が
 出たことによりS.A.A.人気が高まり、後にS.A.A.
 は「西部を征服した銃」と呼ばれるようになる。
 コルト・モデル1878ダブルアクションが登場。

1879
 4.75インチ・シビリアン登場(#73,000以降)。
 ショートバレルのDAシェリフズモデル登場。

1882
 グリップはそれまで木製だったが、ハードラバー
(硬質ゴム)のグリップが登場。
 3インチ銃身、エジェクターロッドなしのSAA
 シェリフズモデルS.A.A.が登場。
 輸出モデルのみエジェクターヘッドをハーフムーン
 タイプに変更。

1884
 .32-20と.38-40口径用を発売。
 エジェクターロッドヘッドが丸形フルムーンから
 半月形ハーフムーンタイプに全面変更。
 ゴムグリップにイーグルデザイン採用。

1885 .41コルト口径用発売。

1886 .38コルト口径用発売。

1887 .32コルト、32S&W口径用発売。

1888 フラットトップのターゲットモデル発売。

1889
   .44Russian、.38S&W、.32-44S&W口径用発売。
 同年、シリアル13万台。

1890 .44S&W口径用発売。同年シリアル13万台。

1892
 シリンダーベースピンストップスクリューを横置き
 タイプに改良。

1894 Bisleyモデル生産開始。

1896
 シリンダーピンストップ横置きタイプが一般市場に
 出回る。来たるべきスモークレス時代に向けて対応。
 イーグルグリップ生産中止。

1900 無煙火薬が使われ始める。

1902 フロントサイトを大型化。同年シリアル22万台。

1907 木製、アイボリー、パール各グリップにメダリオン。

1912 Bisleyモデル生産中止。

1914 .38コルト口径用生産中止。

1922 .38コルト口径用生産再開。

1924 .45ACP用シリンダー製造発売。

1930
 .38コルト口径を.38Spl用に変更。
 バレルスタンプ「COLT SINGLE ACTION ARMY .口径」が
 スタート。

1931
 リアサイトをそれまでのVノッチから溝の四角い
 スクエアノッチに変更。

1935 .357マグナム弾用発売。

1936
 ハンマーの仕上げ、ケースハードゥンからブルー
 に仕様変更。ハンマー・サイドは白磨き仕上げ。

1940
 シリアルナンバー357,859で製造中止。
 ここまでをファースト・ジェネレーションと呼ぶ。
 最多機種は.45コルト・・・150,683丁。
 最小機種は.32RF・・・1丁。
 特種機種・・・.45用スムーズボア(ライフリングなし)
 (現在、スムーズボアは米国法により製造禁止)

1956(2nd)
 セカンド・ジェネレーションの製造開始。
 シリアルナンバーは0001SAから。
 ハンマースパーの形状変更。
 すべてのバージョンを通してトータルバランスに
 おいて一番完成度が高いS.A.A.といわれる。

1972 プロトタイプのみで.44Mag.用製造。#GX9234。

1974
 セカンド・ジェネレーションの製造中止。
 シリアルナンバーは73319SAで終了。

1976(3rd)
 サード・ジェネレーションの製造開始。
 口径は.45COLT、44-40、357Mag.の3種類のみ。
 
1978  シリアルナンバー90500SAでこのナンバリング終了。

1979  シリアルナンバー、SAを数字の前に打刻し始める。

1981  サードジェネレーションの製造中止。

1990年代初頭
   1970年代初期にオートピストルを使用したコンバットシュー
 ティングの流行によりSAAドロウシューティングが衰退して
 いったが、この時期にコスチュームも開拓時代のものを着用
 する新しいジャンルの射撃、カウボーイシューティングの
 人気が高くなる。

1992(4th)
 俗称4thジェネレーションが製造再開。
 ただし、COLT社では正式には3rdジェネレーション
 としている。
 ハンマーボルトの位置が後退し、フルコックの際
 にはハンマーが下がりすぎて射撃に悪影響を及ぼ
 す。2ndジェネレーションの完成度とあまりにも
 かけ離れているため、サードパーティーが手がける
 S.A.A.カスタムの方が格段にコルトオリジナルより
 クオリティーが高いものとなっている。
 
1994
 西部劇映画が雨後の筍のように復活。
 米国内でカウボーイシューティングがジャンルとして確立しだす。

2006現在
 COLT社は、最近流行のカウボーイシューティングでの
 マーケットを狙ってS.A.A.の廉価版「コルト・カウボーイ」
 を市場投入した。
 撃発システムは、ファイアリング・ピンがS.A.A.
 オリジナルのようにハンマーについておらず、ル
 ガーと同タイプのフレームインナー式。
 安全性は高く、価格も安いが、ルガーのS.A.A.コピー
 のルガー・バケロ人気には遠く及ばない。
 ルガーは故障が少なく廉価なため、カウボーイシュー
 ティングではコルトオリジナルよりも人気が高い。

 (バケロ=スペイン語でカウボーイの意。バクェーロとQを
 発音するのかと思ったが、それは英語発音であり、
 スペイン語を母国語とする元MPの友人のガバメント遣い
 によると日本語では「バケロ」と記すのが一番スペイン
 語の原音に近いので、以下「バケロ」と記します)
 
 コルトS.A.A.オリジナル 標準価格1,617ドル。
 コルト・カウボーイ     標準価格 670ドル。
 ルガー・バケロ       標準価格 590ドル。
                (2006年3月現在)

スターム・ルガー社製バケロ.45口径
  




タナカ SAA <トイガンについて>

タナカワークス コルト S.A.A. 4'75"

発射方式:ガス(ペガサス・システム)
ソ ー ス:HFC134a
(オゾン層を破壊しない代替フロン)
使 用 弾:6mmBB弾
装 弾 数:18発
初  速:86m/sec-0.74J(0.2gBB)
バ レ ル:ブラス製/内径6.04mm
バレル長:109mm(インナーバレル)
全  長:261mm
全  高:131mm
重  量:730g
材  質:ABS+亜鉛合金+真鍮

タナカ製ペガサス・システム・コルト・ピース・メーカー1st ロットの初期バージョン(手前)。
奥はタナカ製2nd ロットをハートフォードがチューンナップしたファースト・ドロウ・カスタム

タナカ製のペガサス・システム搭載のコルトS.A.A.は1999年に発売された。
タナカワークスは、もともと東京の下町でモデルガン製造を請け負っていた製造メーカーで、独立してタナカとして製品をリリースするようになった。

<日本のトイガン小史>
タナカワークスは、日本のトイガンがモデルガンよりもエアガンが主流となっていったエアガン揺籃期〜発展期の時代、一時ウエスタン・アームズ(国本圭一社長)と技術提携してマグナ・ブローバックのガスガンを製品化していた。
その後、モデルガン製造技術を生かしてタナカ独自のカラーを出してきた。
日本トイガンの歴史について簡単におさらいしてみよう。

日本におけるトイガンの黎明期である1950年代、輸入雑貨を扱っていた東京アメ横の商店群が国内トイガンブームに先鞭をつけた。
当時の事情を簡単に説明すると、当時アメ横にひしめいていた玩具店である中田商店、江原商店、丸郷商店、ホンリュー、マルホコルトなどのショップにアメリカから輸入したトイガンをベースにチューンナップして卸していたのがMGCだった。
それらの関係を取りまとめていたのが国際出版だ。
MGCは設立当初「日本モデル・ガン・コレクション協会」といい、輸入したオモチャの銃を黒く染め直して卸していた。
それらの玩具と区別するためにMGCは1960年にコルト・フロンティアを販売するにあたり「モデルガン」という名称を世界で初めて用いた(時期については異説あり)。
1965年にMGCからモデルガンの供給をうけられなくなった各商店はメーカーとして独立の道を歩き始める。
事の成り行きはこうだ。
1950年代後半に点在したアメ横の各商店をとりまとめていた国際出版は国際ガンクラブという団体を設立してモデルガンの販売や製造を行っていたが、この部門を独立させて国際産業が生まれた。
ところが、1965年にMGCがこの団体を脱退することになり、モデルガンの供給を受けられなくなった各業者が連合して日本高級玩具組合(N.K.G.)を設立し、各社が協力してモデルガンを開発して行ったのだった。
マーケティングとして特筆すべき点は、各社が独立のカンパニーでありながら、共同のカタログを製作して製品の併記あるいは相乗りをしていたことだった。
まさに共存共栄。
まだOEMとか企業体のコラボレーションなどという言葉も概念もない時代だ。
私も小学校の社会の時間に習ったが、当時の一般的な製造→物販のルートは、製造業者→問屋→小売店というものであり、ここに仲買人が絡んでくる。
保険としてのエスクロージャーというものが存在しない当時のトイガン組合の販売方式はリスク回避と利益分配を具体的にどうやっていたのか興味が尽きない。

さて、江原商店はCMC(コルト・モデルス・カンパニー)となり、ホンリューはハドソン、桜邦(おうほう)産業はコクサイとなった。
1965年頃、MGC以外のメーカーがモデルガンを作り始めたときに一手にそれらの製造を請け負っていたのがマルシン・ダイカスト(現マルシン工業)という会社だった。
MGCは大田区の工場(後、埼玉県浦和市=現さいたま市に自社工場移転)で製造していた。
マルシン・ダイカストは中田商店と共同出資してモデルガンの組立工場を作った。
この工場はやがて独立してTRC(東京レプリカ・コーポレーション)というブランドとなり、TRCで組み立てた物を中田商店で売るという流れが作られた。
この頃、人的関係からTRCで組み立てを手伝ったのがまだ少年だった国本圭一氏だ。
少年だった国本氏はTRCの工場長だった日本ウエスタンクラブの根本忠さん(通称ネモチュウさん)に依頼されて組み立てを手伝っただけだったのだが、国本氏が組み立てたモデルガンは作動に誤作動がなくクレームが皆無だった。
どんどん組み立ての大量注文が国本氏の下にやって来た。
友人と二人ではまかないきれないほどの量だったので、国本氏は人を雇って組み立てをこなしていったという。
一方、国内で大人も含めて誰も国本氏ほどの早撃ちとガンプレーができないことが明らかになった頃、国本氏は16歳の高校1年生になっていた。
彼は高校生の時から当時会社員以外としては珍しい自己紹介の名詞を作り、国内初の「拳銃殺陣師」として日本映画制作のテクニカルアドバイザーとして活躍していく。
モデルガンの組み立て部門はやがてウエスタン・アームズとして独立法人化していった。

1971年と1977年に大幅な銃刀法改正によるモデルガンへの規制があり、これを受けて中 田商店がモデルガンを売らなくなったとき、TRCとマルシン・ダイカストは合併してマルシン工業(MKK)となった(現所在地埼玉県川口市)。
現在はエアガンで気を吐くマルシンだが、かつてのマルシンのモデルガンは作動性が確実で、特にピースメーカーなどはMGCやCMCを含めた全社の中で一番確実な作動をした。
更に厳密にいうならば、TRC時代の中田のピースメーカーが最も誤作動が少なかった。

これら日本のトイガンの歴史の中で、老舗といわれるタナカワークスがどのように関わってきたのか、私は不勉強で詳しく存じ上げていない。
あくまで推測だが、もし、国内トイガンの黎明期からたとえモデルガンのパーツといえどもタナカが製造に携わっていたのだとしたら、国内トイガン業界の解体・再編が為された衝撃の1965年あたりからではないだろうか。
タナカの旧製品の箱を見る限り、どうやらCMC→六研の流れと密接なつながりがあるように思えてしかたないのだが。。。
CMCの金型を引き継いだのがタナカという話を耳にしたことがあるが、CMCのどの金型を引き継いだのか情報不足で判然としない。
当時の倒産前のCMCは、他社もそうだったように、鋳物の町川口にあるマルシンにて金属モデル本体の型押しをしていた筈で、そうなると金型自体はマルシンの工場内にあった訳であり、また、当時の金型の引継ぎというのは各社で錯綜していた形(CMCプラ・ピースメーカーの金型はハートフォードが引き継いだ)だったので、よく流れがつかめない。
モデルガンを製作するときに図面を起こす際、昔は実銃から寸法採りすることはしていなかった。実銃の写真から図面を起こすしかなかった。
そのためどうしても中心から離れる程、実銃の寸法よりも大きくなってしまった。
カメラのレンズが魚眼になっているためだ。
だから大抵グリップ部分などは実銃の数法よりモデルガンの方が若干大きくなる。
現在は解散してしまったランパント・クラシックのS.A.A.の2ndジェネレーションは、国本圭一氏のアメリカに置いてある実銃S.A.A.2ndから採寸した。
従って、ランパント製のモデルガンは、平面写真では判り得なかったシリンダー後部のフレーム部分が後ろから見たときに真円でなく西洋梨形であるような三次元的ディティールまで忠実に再現している。
面白い現象として、最新のタナカワークスS.A.A.のガスガンのグリップ寸法は実銃を写した最近の他社の寸法より大きい(=実銃よりも大きい)。
ところが、その大きいタナカのS.A.A.グリップはCMCの貫通シリンダーの旧S.A.A.にピタリと合うのだ。
これは、グリップ周りの金属フレーム部分の金型寸法が一緒であることを示している。
最近「モデルガンの金型売ります」という広告を雑誌で見たが、昔は金型を一般に売りに出すということはありえないことだった。
ダイカストモデルは金型が命(金型は新規で作ると大体ひとつニ千万円位かかる)なので、コネで売買譲渡されるのが常だったのだ。
意外なところでは、自衛隊の9ミリけん銃の実銃グリップ開発にタナカワークスが噛んだという話を聞いたことがある。
これなどは、トイガンメーカーが実銃製作に協力しているレアなケースで面白い。
良質な物を大量に生産した経験のあるメーカーにしかお鉢は回ってこないだろう。
タナカワークスの静かな実力を示すエピソードだ。
(タナカについては情報が確認され次第、訂正・加筆したいと思います)

2006年6月7日補筆
過去の専門誌を見ていたら、タナカ・ワークスについての記事がありました。
それによると、タナカは元々銃器の木製ストックを製作していた会社だった
ようです。
海外にも大分輸出されて、その技術力については定評だった模様。
それが円=ドルの為替相場が240円になった頃から採算があわなくなったので、
国内のトイガン製作に乗り出して会社の業務をシフトしたそうです。
1ドルが240円の時代といえば、1985年のプラザ合意以降となります。
あるいは変動相場制を導入した1973年から東京市場で1ドル200円割れ
した1978年までの期間だったのかも知れません。
ただ、タナカ・ワークスの社長の話しぶりからすると、1ドル360円の
固定相場時代からニクソンショック〜ドル金兌換停止の時代にはまったくの
木製ストックメーカーだったようです。
1960年代にモデルガンのパーツ製作を手がけたという記載は見当たりません
でした。
従って、タナカが純粋に国内トイガンメーカーとして旗揚げしたのは、
1970年代中期〜80年代前期と特定して差し支えないと思います。
その後、1986年には日本の海外資産が世界一になります。
タナカは、他古参メーカーが1952年の東京外為市場開設後の高度経済成長
と共に育ったのとは違い、ブレトン・ウッズ体制→ニクソンショックの貿易
市場の影響をモロに受けた時代の中で産声を上げた意外と新しいメーカー
だったのです。
とても厳しい時代の流れの中で生まれ育ったメーカーといえるでしょう。

旧タナカの箱
タナカの旧S.A.A.ガスガンとパッケージ。
これはCMC・ROCKENのピースメーカーと同じデザインの箱であり、
印刷されたロゴにROCKENと記載されていないだけである。
S.A.A.の写真はタナカ・ガス・モデルが印刷されている。

六研プラの箱
六研のプラスティック・ピースメーカーのパッケージ。
S.A.A.は六研のプラ・ピースメーカーが印刷されている。
パッケージ・デザインは、まったくタナカと同一。

かと思ったら、それだけではなかった。
WAプラの箱
これはウエスタン・アームズのプラピーメのパッケージ。
まったく同じ箱を別メーカーが使い回している。
一体、この業界、どうなっているのだろうか。
ここまで来ると、ピーメ・マニアとしては、この箱の
歴史や画の作者を探す旅に出てみたくなる。

実銃の箱
と思っていた矢先、今月(2006年7月号)のGun誌を
読んでいてビツクリ\(◎。◎)/
ドイツのシュツットガルトで2006年に開催された
アンティーク・ガン・ショーで実銃ピースメーカー
が紹介されており、そのなかで、実銃の元箱として
この箱が掲載されていた。(無断転載陳謝)
1955年に製造が開始され1982年に製造中止となった
S.A.A.の2nd ジェネレーションはかなりのコレクターズ・
アイテムで、今回のショーにも多くの元箱付きでの展示
があったそうだ。
いやあ、無知というのは恐ろしい。
国内でWAをはじめCMC/六研やタナカによって使用されて
きたこのモデルガン・ピースメーカーのパッケージは
実銃の2nd ジェネレーションの物をフルコピーしたもの
だったのだ。
なんだか、タナカ・カート・ガスガンの箱さえ、とても
貴重な物に思えて来た。。。(^^;)

しかし、となると、MGCの1973年バージョンのS.A.A.用の
箱のデザインは、その後マルシンがまったく同じように
使用しているが、こちらも実銃の箱と関係あるのだろうか?
MGCのS.A.A.の白いバージョンの元箱は同系統のデザインが
何種類か存在する。
マルシンが継承したものは1980年頃のMGCのS.A.A.末期の頃
のパッケージに類似したものだ。
このあたりの考察は、MGCのS.A.A.コンテンツの項に譲りたい。



<モデルガン以上のエアガンの登場〜タナカ・ペガサス〜>
エアソフトガンが登場したのは1970年代末期だった。
まだ当時はツヅミ弾と呼ばれるテルテル坊主のような実銃のエアガンの弾に似せた形をしたプラスティック弾をスプリングや圧縮ピストン(水鉄砲の原理)で飛ばす物が殆どだった。
しかし、愛知県のサカエヤというショップを中心に川本氏(現CAROMSHOT代表)という方が1982年にアメリカでの牛追い用のネルスポットガン(Co2ガスを用いた着色弾用銃)を使用するサバイバルゲームに着目して国内に持ち帰った。
だが、国内ではCo2銃は実銃の範疇とされて使えないため、極端に低威力だった玩具のツヅミ弾用エアガンをBB弾用に改造して、スプリングのテンションを高めて使用した。
眼球を守るためのゴーグルは水中眼鏡のような工場での作業用の防塵ゴーグルを流用した。
ペイント弾ではないので、ルールは自分に相手のBB弾が当たったら「当たった」とコールしてゲームから抜けるものとした。
これが国内におけるサバイバルゲームの始まりだった。
サバイバルゲームは瞬く間に全国に普及し、モデルガンメーカーが丁度その時期に発火と同時にレーザー等で射的するシステムを開発してモデルガンユーザーの射的欲求に火をつけたのと期を一にするように「射的」が多くのガンマニアに広まっていった。

しかし、当時はエアガンはオモチャに毛が生えた程度の外見でしかなかった。
(エアソフトガンという名称は後年作られたもの。現在は統轄する安全組合の団体により「ソフトエアガン」「エアースポーツガン」等バラバラの呼び方をしている。本稿では便宜上普及している「エアソフトガン」もしくは「エアガン」という呼称を使用する)
1980年代は、外見はモデルガンの方がずっとリアルだったのだ。

ところが、マルイというメーカーがエアガン業界に参入してから、外見はモデルガンを凌ぐ物がぞくぞくと登場し始めた。これが1980年代中期〜末期。
そうした中で、低圧のフロンガスをパワーソースに使用したガスハンドガンが初めて登場する。
作ったのは日本トイガン界の雄、モデルガンメーカーのMGCだった。
MGCはモデルガン製造で培った造形技術を生かして、リアルな外観のベレッタM93Rを世に送り出したのだった。
内部メカはインパクトバルブという画期的なものだった。
これより少し前にウエスタン・アームズがAR-7という長物モデルガンのガスガン化に成功して製品化していたが、ハンドガンではMGCが初めてだった。
これに続いて、パワーソースを低圧フロンとするエアガンが続々と登場してきた。

だが、どうしても越えられない壁があった。
オートマティックの銃ならばマガジン部分にガスタンクを設置できて、外見も崩さずに造形できる。 だが、回転式のリボルバーとなると、エアガンとして十分なガスの吐出量を得るガスタンクを置く場所がない。
やむなくカートリッヂ内にガスを充填したり、グリップ内に複雑な機構を組み込んでガスチャンバーを設置したりしてた。

ガス1 ガス2
グリップ内に設置されたガスチャンバー。上タナカ旧S.A.A. 下マルシンM36チーフ・スペシャル。
いずれもスペックはライブ・カートリッヂ仕様。

しかし、BB弾の発射性能としては、導管の距離とシーリングの問題から放出ガスのロスが大きく、十分なパワーを得ることはできなかった。
マルシンのM36チーフ・スペシャルなどはスプリング式トイガンよりはまし、という程度のものだった。
かといって、パワーを得るために1980年代中期にサブマシンガンで流行したような大きなガスタンクやエアタンクからノズルを拳銃に直結させるのはビジュアル的に実に不細工である。一部の特化したシューターを除いて誰もこれはやらなかった。
リボルバーのガスガンは、ガスガン誕生の1985年から実に14年後までパワー不足を解決できなかったのである。

タナカ・ペガサス・システムのS.A.A.が1999年に発売される10年前の1989年にタナカとマルシンからほぼ同時にガスガンのS.A.A.が発売された。
しかし、パワーソースを蓄積するガスタンクの容量と位置からガス放出のロスが多く、お世辞にも射的などには使えない代物だった。
マルシンのリボルバーは(現在でもそうだが)、銃口部分に別パーツのフタのような物があって外見を大きく崩していたし、タナカのS.A.A.はフレーム本体が左右からの張り合わせモナカという1950年代のトイガンのオモチャのようだった。
重量も400グラム、とまるでプラモデル。

マルシン・チーフのマズル 旧タナカのフレーム
左−マルシン・ガスリボルバーの銃口。この変なフタは・・・?
   この方式は現在までも続いていてマルシン・リボルバーの唯一の外見上のネックとなっている。
右−タナカ旧ピースメーカーのフレーム。張り合わせのモナカ構造で安物のエアコッキングのようだ。
   打刻されたシリアルナンバーのモデリングも心なしか空しく映る。


タナカ比較2 タナカ比較
タナカ・ガス・リボルバーのマズル部分。
左−旧S.A.A.  右−ペガサスS.A.A.
旧タイプでもマルシンよりはリアルだが、インナーバレルが奥にオフセットされて
更にアウターバレルにライフリングまで施されたペガサス(右)は、モデルガン並の
外見だ。


タナカ初代S.A.A.で唯一心をなごませたのが、リアルカートリッジの先にBB弾を詰めてシリンダーに実銃のようにカートを装填でき、排莢もリアルにライブするエジェクターロッドを使ってカートを取り出せることだった。
タナカ初代S.A.A.のカートはモデルガンのように銃を傾けただけでパラパラと落ちてくるようなものではなく、実銃のようにエジェクターロッドで押し出してやらないとシリンダーから排出できないくらいにクリアランスが狭いもので、妙にそこだけは実銃っぽかった。
しかし、分解してみると判るが、シリンダー周りの機構はとてもよく工夫されており、設計者の努力が伺えて、トイガンとしてとても好感が持てる。

旧タナカ・ライブカート
タナカ旧ピースメーカーはカートリッヂ先端にBB弾を詰めて装填する。
シリンダーのクリアランスが狭く、排莢は実銃同様にエジェクターロッドで押し出さないと排出されない。
画像のカートは別売りの金属(ブラス)カートリッヂ。
形状は.45コルトよりも.44-40弾に似ている。
先がくびれた.44-40弾のニュアンスをよく掴んでいる形状だ。

さて、1999年にタナカはペガサス・システムを発表する。
誰もが度肝を抜かれた。
これは、シリンダーを二重構造にして、その外周をBB弾保持のパーツとして設計し、シリンダーの中にガスタンクをガスチャンバーとして設置したものだった。
ハンマーをコックするとシリンダーの外枠部分のみがリアルに回転し、実銃同様にシリンダーストップのノッチがシリンダーの溝に食い込んでシリンダーがストップする。
内部に設置されたガスチャンバーは固定されているので、まるでフィクスド(固定スライド)のオートのようにパワーロスがない。
しかも特筆すべきはその外観。
バレルとフレームにABS樹脂を射出した際のテーパーライン(タイヤキの合わせ目を想像してください)が残ってはいるものの、外見上の仕上げが実に丁寧だ。
しかも、旧来のABSの成分を変えたのか、あるいは金型での射出技術になんらかの変革があったのか、表面がとてもいい色をしている。
昔のABSのようにペラペラでテカテカしておらず、しっとりとした深い艶があるのだ。
一方、亜鉛合金の部品は、エジェクターAssyとシリンダー、シリンダーゲート、トリガーガード、グリップのバックストラップなのだが、これのブルーイングが重厚感のあるリアルなブルーのABSとほぼ同じ色に染め上げている。太陽光に晒してみないとその発色の差異が確認できない程だ。

タナカ SAA
タナカ・ペガサス・システムを搭載したS.A.A.(1999年発売)。 内部メカはまさに新世紀を担う画期的なものだ。
内部機構だけでなく、その仕上げたるや、旧タナカの亜鉛パーツのブルーや
現ハドソンの亜鉛パーツや現行他社の亜鉛パーツのブルーとはひと味違う仕上げ。
あたかもリブルーしたようなメッキ風の深い光沢を放っている。まるで実銃みたいだ。

ゲート
上が旧タナカS.A.A. 下がペガサス。
シリンダーゲートの亜鉛部分の質感の違いに注目。
経年変化があるとはいえ、旧タナカは新品の時から
ブルーの仕上げが悪かった。

また、ペガサスS.A.A.のシリンダーは旋盤で金属を削り出した掘削痕を残したままにしている。
これがなかなかいい金属感を醸し出している。
2005年末にバージョンアップされたペガサスS.A.A.の3rdバージョンはシリンダーが実銃のように取り外せるデタッチャブル方式となったが、同時に表面がツルツルに研磨されてしまった。
実銃に近づいたとはいえ、掘削痕が薄く残る1st と2nd バージョンのシリンダーもなかなか味があって良かったと思う。
いずれにしろ、もはやこれは旧来のガスガンとは外観的にも内部構造的にも完全に別物と思ったほうがよい。
それどころか、ガスを充填して射撃しないときには、磨き上げてモデルガンとして鑑賞して楽しむことに十分に応えてくれる。
それ程、出来がよいエアソフトガンなのだ。
KSCのガスブローバックP230JPを見た時にあまりの外見的クオリティーの高さに驚いたが、このタナカワークスのペガサスS.A.A.はコアなマニアの鑑賞にも十分に堪えるルックスを持っている。
しかも、シリンダー(外周)は金属でできているので、ハンマーをゆっくりコッキングしたときのチッ・チッ・カチャキンという金属音がたまらない。
ヘタな作りのABS製モデルガンを買うよりも、タナカ・ペガサスの方が未発火モデルガンとして楽しむためには向いているかも知れない。

外見上も内部構造も都度進化してきているのがペガサスS.A.A.だ。
ガス注入口 ガス注入口
左−ペガサスS.A.A.1stバージョン。 右−ペガサスS.A.A.2ndバージョン。
ローディングゲートを開けてシリンダーを回すとガス注入用の穴が来る。
ガスの注入は付属してくる専用のノズルをガスボンベに挿して行う。
1stバージョンはシリンダー後端がノッペラボウだが、2ndバージョンでは
カートリッヂのリムを模したギミックが装着されていてリアルだ。


ダミーリム
シリンダーを更に回すと・・・・もっとリアル。
しっかりと実弾カートリッヂと同じ45COLT W-Wの刻印が見える。かなりリアル。
初めて1stバージョンを見た時、実弾のリムだけを切り取ってここに貼り付けよう
かと考えていたが、この2ndバージョンのリムはリアル派にはありがたいギミックだ。
タナカワークスの方に直接お話を伺ったら、タナカではこれをダミーリムと呼んで
いるのだそうだ。
別売りパーツで1stバージョンを2ndバージョンのダミーリム仕様に変更することも
可能だ。

バレルのライン フレーム
左−ABSとは思えないアウターバレルの出来のよさ。
右−フレーム部分もABSだが質感が1989年製の旧モデルとまったく異なる。
バレル上下、フレーム前部のテーパーラインはサンドペーパーにより私が削り落とした。

マズル
銃口部分のクラウンにあったプラスティック射出の際のテーパーラインも
サンドペーパーで削り落とした。
その後、#2000のペーパーでほんの少しヘアーラインを入れてやるだけで、
まるで金属のような質感が得られる。
全体的にABSにありがちな射出疵であるヒケも見られず、あきらかに昔の樹脂
よりも質が向上しているのが判る。

タナカ・ペガサスは外見がとてもリアル。
バレルの上部には COLT'S PT.F.AMFG.CO.HARTFORD CT.U.S.A. とリアルな書体で刻印されている。
これひとつを取ってみても、ヘタなモデルガンを凌いでいる。

刻印 ランパントマーク
左−フレームの刻印。PAT.SEPT.19.1871 JULY 2.72 JAN.19.75 とある。
JULYのあとに「.」が抜けているのが惜しい。書体もつぶれぎみだ。
但し、矢をくわえた馬が前足を上げるコルトのトレードマークである
いわゆるランパントマークはくっきりと刻印されていて旧タイプとは
比べ物にならないくらいに美しい。

右−ペガサスS.A.A.は実銃の2ndジェネレーションをモデルアップした
ものだが、グリップはあえて1stジェネレーションの硬質ゴムグリップ
採用時の初期タイプのイーグル彫りがないものにしている。これも
マニア心をくすぐられる。
現行ペガサスの3rdバージョンではイーグルグリップに変更されている
からだ。
実銃の世界では、アンティークとしてはイーグルのないタイプに人気が
集まっている。


<ペガサス・システム>
タナカワークスが考案したペガサス・システムとはPEGASUSのこと。
もちろん、星座のペガサスにちなんだものだ。
ペガサスは、勇者ペルセウスがメデューサの首を切って倒したときに、胴体から生えてきた天を駆ける羽のある白い天馬のことだ。
ペルセウスがペガサスに乗って故郷に帰る途中、生贄にされていたアンドロメダ姫(アンドロメダ座)を見つけて救ったという神話が残っている。
その神話のペガサスから取ったのだが、タナカ・ペガサスには実は別な意味もある。
P=Progress(進歩的で)
E=Effective(効果的な)
GAS=(ガスの)
U=Universal(万能な)
S=System(システム)
というものがそれ。
やってくれます、タナカさん。この機構だけでも歴史的快挙なのに、それに言葉遊びを絡める余裕を見せている。
このシステムを発案して開発した人は、ユーモアを解する柔軟な思考回路を持ったかなり才能があるクリエイティブなエンジニアなのだと推察する。

これがペガサス・システム。(クリックで大きくなります)
クリックすると大きくなります クリックすると大きくなります

本体に同梱されてきたカッタウェイ図をみても、このペガサス・システムがいかにロスなくガスを放出する構造になっているかが判る。
しかもシリンダーの外枠をBB弾の保持チャンバーとし、実際にハンマーと連動して回転させることにより次弾を撃発位置に持ってくる実銃と同じメカにしたところがすごい。
分解もシリンダーとバレル以外は実銃とまったく同じ方法で行える。
マニア泣かせ(うれし泣き)だ。

分解1 分解2
アウタバレル
アウターバレルは、エジェクターチューブを外した後、パッケージに付属
してくる専用ヘキサゴンレンチでイモネジを外せばすぐに取り外せる。

最近、タナカS.A.A.用のスチール製やステンレス製のアウターバレルがサードパーティーによって出回っているようだが、それを装着した場合は、当然銃口を完全閉塞して本体を白または黄色に塗らなければ銃刀法に抵触するおそれがある。
安易なフルメタル化を推奨する訳ではないが、メタルパーツが駄目というならば、シャシやハンマーやトリガーやトリガーガードやバックストラップも駄目だろうし、内部パーツの金属はすべて駄目ということになる。
また、プラの表面にニッケルメッキ処理をした製品が合法であるなら、表面が金属皮膜で覆われているものは良いのか、ということにもなる。
プラスティックそのものが黒くリアルに作れる現在、35年前の銃刀法の規制はまったく内容が伴わないものになっているように感じる。
また、外装のメタルパーツが即違法な威力アップにつながるとも思えない。
法を遵守するのは当然だが、競技会や玩具組合などでの行き過ぎたメタルパーツ自主規制は、逆にトイガンの安全性の理解普及の妨げになるのではないかと思う。
かつて鉄粉を樹脂に混入させた素材の過剰な自主規制の空気が蔓延した時に、ウエスタン・アームズ代表の国本氏が示した「トイガンの安全性への理解を逆に妨げる懸念あり」という見解と、同業者や心無いユーザーから散々叩かれたけれども当時のトイガン業界を真に憂う氏の動きに私は全面的に賛同する。

さて、弾を込めてみよう。
弾薬・・・でなくて(^^;)、BB弾の装填は、まずシリンダーの前側から6発をシリンダーのチャンバーにカチッと音がするまでBB弾を押し込む。これで6発。
さらに多弾数が欲しい場合は、エジェクターチューブの中にあるパイプ状のマガジンを抜いて、目盛りのところまでBB弾をコロコロと入れ、エジェクターチューブに装填する。
マガジンに12発、シリンダーに6発、計18発が装填できる。

マガジン マガジンはワンタッチでエジェクターチューブに納まる構造になっている。
マガジンからシリンダーに対してマガジン内BB弾を頭にしてテンションがかかる仕組みになっており、シリンダーが回転すると自動的にエジェクターチューブ内のマガジンからシリンダーのヘッドにBB弾が装填されるようになっている。
随所にユニークなアイディアがちりばめらているのがこのペガサスS.A.A.。
考え出した人は天才に違いない。マグナ・ブローバック以来の衝撃だ。

パッケージ
とにかく、可愛くてしかたがない一丁。それがタナカ・ペガサスS.A.A.だ。


<実 射>
シリンダーにエクセルの0.2gバイオBB弾を装填して撃ってみた。
初速は3月の室内で86m/sec出ている。0.74ジュールだ。
まあ、安全かつエアソフトガンとして十分なパワーといえる。
ただし、グルーピングはバラつく。
8メートルの距離で牛乳の紙パックを外すことがあった。
5メートルならおおよそ4センチ圏内に集弾する。
そもそも、サイトが合ってない。
だが、実銃のピースメーカーもサイトはまったく合っておらず、また、きちんとエイムしてポイントシュートするためのガンでもない。
荒野で出くわしたガラガラヘビを撃つときには多少焦るだろうが、元々は抜いて至近距離でドンッとぶちかますための銃だ。
それにコルトだ。あたる訳がない(^^;)
実銃においてもフロントサイトも背が高すぎるし、後端が丸まっているので、正確なエイムは初めから望むべくもない銃なのである。
よく実銃のアンティークでフロントサイトを適度に削り落とした物を見るが、あれは早撃ちのためでなく、せめてもサイトを照準器として機能させようとした先人たちの努力の痕跡ではないだろうか。
タナカ・ペガサスはガンベルトから抜き撃ちしてこそ面白い。
ということで、実際にガスをチャージして抜き撃ちしてみた。


<ファースト・ドロウ>
手元にハート・フォードのタナカ・ファースト・ドロウ・カスタムがあるが、あえてノーマルの1stバージョンでドロウしてみた。

ドロウ1
ドロウ2
ドロウ3
ドロウ4

(動画)←クリック

<エピローグ>

タイムカウンターでタイムを計ったら、0.27秒だった。
動画カメラのスピードが遅く、ドロウの瞬間が映っていないが、
動画の編集は一切していない。
しかし、タイムとしてはかなり遅い。
昔はマーク・リードと国本圭一氏に私淑して、金属モデルで
血がにじむ程練習した。
ピースメーカーの内部消耗パーツは1ヶ月ともたなかった。
今回は、撮影前に数回手慣らししただけの30数年ぶりの
ドロウ。かつてはもう少しばかり早かったか。
音が後からついてくるように思えたので、スローで再生させたが、
ちゃんとポイントしながらハンマーは落としていた。
私のドロウは、銃の重みを利用してハンマーをコックする。
ホルスターも銃が乗っているだけのドロウ用に特化した物ではない。
(ホルスター内でシリンダーが回るようにはセッティングしています)
実銃は国内では無理だが、できる事ならせめて金属製の
S.A.A.が性に合っている(競技では銃口発火による計測
という構造上制約されるジレンマがあるが)。
そして、私のシュートはターゲットをポイントする寸前に
トリガーを引き、ポイントと同時に撃発に持っていく方法で、
国本氏が伝授していた撃ち方にならっている。
また、私は極端な上体のけぞり撃ちは一切しない。
マーク・リードも国本師匠も、ブランク(空砲)撃ちのときに
だけ通用するのけぞり撃ちは、実弾クイックドロウの際は
していない。
実弾では激発の寸前に脇を締めて身体をピタリと
ロックさせることが必須で、状態をのけぞらせるのは
実弾射撃とは別なブランクの世界でのみの方程式なのだ。
マークは1959年の16歳のときに、科学的に計測したセルフスタート・
ドロウで0.06秒を3回記録している。
アラン・ラッドのシェーンが1回抜く間に10回抜けるのだ。
この驚異的な記録は、現在でも破られていない。

ちなみに、ウエスタン・アームズのモデルガンでのドロウはこれ。
(動画)←クリック
タイムカウンターでは0.19秒だった。
セルフ・スタートなので、ものすごく遅い。
リアクション・スタートで好タイムを出すには
セルフスタート自体(つまり抜き撃ち自体)は
最低でも0.1秒は切りたいところだ。

そして、実弾射撃用のフォームで、抜いてから身体をロックして
射撃したのがこれ。
(動画)←クリック
左手が写っていないが、国本氏やマークのように左拳を脇で固めている。
タイムは若干遅くなる。

***********************************************************

それにしても、可愛い。
タナカのピーメ、最高である。

実は、フレームサイドのシリンダーベースピンスクリューを
フレームをABSでパテ埋めした後に前部にネジを切りなおし、更に
エジェクターヘッドをハーフムーン型からフルムーン型にパーツ
削り出しで作製して取り付け、開拓時代S.A.A.1st ジェネレーション
モデルにカスタムしてしまおうかと目論んでいる。
タナカS.A.A.を黒色火薬バージョンにカスタムした人、
見たことないし♪(^^)

カスタム


そして、表面処理は使い込まれた感じのブルーにしてあげて・・・
目指す仕上がりのイメージは、こんな感じ?
完成イメージ
(実銃−アメリカのサイトから)

おお!渋いぜっ♪

ついでに、ローディングゲートも画像のような1st の丸い物に変えて・・・
う〜む。そうなると、シリンダーのフルートの前側も削らないと
1st ぽくならないなぁ。。。
ムツカシイですね、リアルに再現するのって(^^)
限界あるから、妥協できる線でまとめると、
こんな感じ?
イメージ
(私のトイガン)

上の画像の実銃にイメージ近づいてる?



(Mar,24.2006:by 元木正太)
※このページの本文は、2006年3月24日に作成してWeb上にアップしたテキストです。
補筆:2006年5月17日
補筆:2006年6月3日
補筆:2006年6月4日
補筆:2006年6月7日
補筆:2006年6月23日


ガンモ所有のトイガン